ボクもそうだ。
冷蔵庫の中にヱビスビールをぎっしりと詰められるほどのお金も持っていない。
それもそうだ。
憧れていたロマンだとか舞台だとかに立てる人は少ない。
やなせたかし先生が昔こんなことを言っていた。
「生きるというのは満員電車みたいなものですよ。ぼくなんか終点近くでやっと座れた」
駆逐艦雪風に赤痢やコレラの病人と一緒にすし詰めになって載せられて帰ってきた人は言うことが違う。ボクも未だにつり革をギシギシ鳴らしながら最高時速120kmで突っ走る電車の中にいる。
実際のところ、今も仕事の原稿チェックの作業が入っていると言うのにほっぽりだして、こんな一銭にもならない私的なテキストを叩いている。このブログはアフィリエイトとかそういうめんどうなものはつけていないのだからしょうがないし、バカだなぁと言うのは自覚してる。艦これの演習切り替わり時間やドルフロの模擬戦闘のAPがそろそろヤバイってのに。
そんなだから仕事もろくにもらえないし、食うに困る。この間も近所のおばさんが全然食べていないやつれたボクの顔をみて米5kgをポンとくれた。ありがたい。米は力だ。みんな天穂のサクナヒメをやろう。
そんな近所のおばさんが「もらったけれど興味がないしあげるわよ」とこんなタイミングで映画のチケットをくれた。まさかのシン・エヴァンゲリオンだ。
内心小躍りしてたボクは今日予定していた先の原稿チェックをキャンセルする。ほんとうに申し訳ないと思っている。
そんなかっこ悪い大人でも、家の外の社会に出ていくには今の時代、マスクをしないといけないし、それ以前に服を着ていかなくてはいけない。
聖書にいわく「アダムとイヴは知恵の実と呼ばれる果物を神様が食べてはダメだって言うのに食べてしまって、小賢しくも恥と言うものを知りました」とある。
薄汚れたダッフルコートと、くたびれたダメージジーンズが家と言う楽園を出るボクがつけるイチジクの葉っぱだ。
サードインパクト後の海みてーな色した電車に飛び乗り、どんぶらこと揺られたかっこ悪いボクは、去年リメイクオープンしたばかりのコースカベイサイドに入った映画館にふらふらとたどり着く。キラキラした映画館で働くキラキラした目のバイトスタッフのおねえさんに「死ねよ、オタク」と蔑んだ横目で見られながら、フッカフカのヒューマックスシネマのシートに座ることが出来た。
とても残念な話を今更になってするのだけれど、ボクは聖書というのに明るくない。
神学なんて学んでいないし、祈る神様もみつけられてはいない。
哲学や倫理学の類もパスカルやニーチェをななめ読みしては机の上で寝こける始末だし、物理学や形而上学なんてのも語れるほどの知識も持っていない。
ようするに、この文章を書いているライターは全然そういった知識のない生き物だし、深い考察をしてきたわけでもない。
残念ながらネブカドネザルとかガフの部屋とか言われても「わぁかっこいいことばだなー」と言う程度のオタクなので、そういう話が見たい、聞きたい人はこのままブラウザバックか、タブを閉じてもらっていいし、閉じなくてもいい。だが、パラグラフの14に行く必要もないし、静かに自分のSNSに戻ってもらっても構わない。
つまり、ここから先には核心的なネタバレの数々が容赦なく書いてあるよ、ということだ。
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||。はっきりと言えば、よくもまあ随分待たしてくれたものだなと言うのが率直な意見だ。
新世紀エヴァンゲリオンと言う物語が始まって、25年の月日が経った。
いわゆる直撃世代と言われる人らはアラフォー……それどころか50に手が届くんじゃないだろうか。
このエントリーを読む人の中にはシンエヴァから入ってきた20代や、場合によっては10代の人もいるかもしれない。いるだろうか。まぁそれはいい。
この四半世紀のうちにいろんなことがあったわけで、地下鉄に毒ガスを撒いた稀代のテロリストの親玉が死刑台に送られたり、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだり、東北で地球史上に残るような地震があったり、風邪のウィルスがすんごい殺傷力を持って世界中で大流行したりした。
まるでハヤカワ文庫や一昔前のスニーカー文庫や電撃文庫の小説で題材になるようなSFが現実で起きてしまった。
かと思えば、アイドルが農作業や鉄鋼業をやったり、打撃も投球もヤバくてイチローもびっくりな野球選手が出てきたり、将棋星人が二人も地球侵略してきたり、ガンダムが大地に立ったりした。
ボクが編集者ならこんな企画プロット提出してきたら即ボツだと思う。
そんな桃鉄よりも面白おかしい25年の間に、庵野秀明と言う人はエヴァンゲリオンと言う物語を描き続けた。途中でゴジラとかキューティーハニーとか作ってたけど。
庵野秀明と言う男は大作家芸術大学と言う所でウルトラマンのコスプレをして自主制作映画を作り、結婚式で仮面ライダー1号のコスプレをして奥さんと合作の同人誌を披露宴参加者に配るような男だ。つまりオタクだ。SFファンから生まれたオタク第1世代。みんなが想像するようなオタクの典型で、メガネをかけたモジャ毛のおっさんだ。
詳しいことは安野モヨコ先生の『監督不行届』と炎尾燃先生の『アオイホノオ』に詳しい。
フロには入らないし、肉も魚も食わない。唐突に怪傑ズバットの語り口上を叫んだかと思えば、ブツブツと誰に聞かせるわけでもない独り言を言うし、重巡洋艦摩耶を描いたら影ガッツリ被せられてはドヘコミし、巨神兵の呪いを受けて腹を壊す。
そんな本格的に気持ちの悪いオタクのおっさんの私小説的な物語がエヴァンゲリオンなのだと、多くの人は言うし、ボクもその意見にはかなりの部分で納得がいく。
だからこそ、庵野秀明を知れば知るほどエヴァンゲリオンと言う物語がわかるし、エヴァンゲリオンを見れば見るほど庵野秀明と言う男がわかる。
すなわち、彼を追い掛け続けたボクのようなオタクたちからすれば、この結末は予定調和だったと言える。
良く言うのであれば安心したと言うべきで、悪く言うならもう見たよ、となってしまう。
「もうこれ見たよ」となることに疑問を抱く人も多いだろう。しかし事実なのだ。
あの筋書き、あの対話、あの結末。スッと腑に落ちるのだ。追い掛け続けてきた人間からすれば。そして既視感などではなく、実際に同じプロットから描き出されたであろうシーンを既に見ているのだから。
「新世紀エヴァンゲリオン2」(以下、エヴァ2)と言うPS2、そしてPSPで発売されたエヴァンゲリオンのゲームがある。
数あるエヴァンゲリオンの名を冠したゲームと一線を画するゲームである。なぜか?
エヴァ2は数多のそうした派生作品がある中で唯一庵野秀明監督が直接関わった作品なのだ。
脚本を描いたとか、レコーディングに付き添ったと言うわけではなく、あくまでも監修と言う立場ではあるらしいが。
我々観客は実際に彼がどの程度このゲームに関わったのかはわからない。ちょろっとセリフを手直ししただけかもしれないし、設定の根底部分まで徹底的に直しを入れたのかもしれない。
恐らくではあるが――シン・エヴァンゲリオンを見終わった今の心境で言えば――エヴァ2にはかなりの深い部分で関わっていたのだろうと断言できる。
エヴァ2で描かれるシナリオの殆どでTV版、旧劇場版と同じエンディングを迎えるのだが、唯一そうした人類補完計画の発動など一切関係のないエンディングに辿り着くことができる。
通称「釣りエンド」。
実際にプレイしてもらって見てもらうのが最も良いのだが、ここでは触りだけお伝えすると、シンジかゲンドウを主人公としたシナリオで辿り着くことができる特殊エンディングで、実際に親子二人で防波堤に釣りに出かけて、「釣れないね」「ああ……」と不器用に会話する、そんなものである。
シン・エヴァンゲリオンの核となるシナリオとは「釣りエンド」のシナリオプロットに大量の肉付けや伏線張りなどを大げさに行っただけなのである。
納得しない人も恐らくいるだろう。いや、大多数の人はこれだけの説明では何一つ理解出来ないと言うのはこちらも承知だ。この段階で「にわか乙」と匿名掲示板やSNSで大草原を生やされて叩かれるであろうことはボク自身も理解できる。
なので、一から説明する。
改めてになるが「エヴァンゲリオンとは庵野秀明と言う男の私小説的物語である」と言う大多数が支持するであろう部分を根底において話を進める。
スタジオカラー創業10年記念映像「おおきなカブ(株)」と言う物がある。
見たことがない人は十分程度の物なので軽く見て頂きたい映像だ。
――色々なことに気付く人も多いだろう。
肉や魚が食べられない人、庵野秀明。
畑、野菜。畑ではカブを作っている。
綾波レイと言うキャラクターは肉や野菜が食べられない。
シン・エヴァンゲリオン本編でもそんな綾波レイをモデルにしたそっくりさんはカブを作っていた。
野菜を収穫してボロボロになった庵野秀明。
彼に最初に積極的に踏み込んだのは超おじいさん。
ボロボロの精神状態のシンジ。
シンジに最初に積極的に踏み込んでいったのはトウジの養父。
あまりにも状況が酷似していないだろうか。
このあたりで少々脱線するが、庵野秀明と言う男を語る上で欠かせない人間が何人か存在する。
まず富野由悠季監督。先にも挙げた宮崎駿監督。近年特に取り沙汰される島本和彦先生。
いずれも日本のトップクリエイターと言える人たちだ。
富野由悠季監督と言えば、ガンダムを創った偏屈でガンコな上井草の爺さんで有名だ。
近年映像として彼が我々の前に姿を表したのはマツコ・デラックスさんがサンライズを訪れた物ではないだろうか。
アニメ制作会社であるサンライズのスタジオの片隅の小さな机に座り、ガンダムの新作映像のチェックをする老人を見て「町工場の親父みたい」と茶化したマツコさんに「そうなんですよ、町工場の親父なんです」と笑って返す元気の爺。
かつて逆襲のシャア友の会で対談した二人は、その後も表で語られることは無いものの、都度都度比較され、話の引き合いに出されると言うことは、少しアニメをかじっている人間ならば知っていてもおかしくはないだろう。
常に庵野秀明の先を行く町工場の爺の姿は果たしてどう見えたのだろうか。
自分よりも少し大人で、大きな組織の中にいながらも、中核から少し距離を取って、粛々となんでも屋として枯れ枝を拾い、川の水を調べ、魚を釣って、機械を直す。そんなキャラクターとして描かれたのではないだろうか。
次いで宮崎駿監督と言えば――もう引退する、これでアニメは最後にする、そんなことを言ってはまたスタジオに戻ってきて絵を描いている。ガンコで偏屈な三鷹の爺さんだ。
あれこれと庵野秀明をコキ使いつつも、時には発破をかける、そんな厄介な爺さんなのだ。
ただ発破をかけるタイミングがちょっと悪いだけで、彼には悪気はないのだ。ご飯が食えなかったり、その場から動けなかったりする時にはそうした言葉は逆効果なのだが、それは全て庵野秀明という男が心底心配でしょうがない、世話焼きの面倒くさい爺さんなのだ。
千と千尋の神隠しの興行収入を上回る作品が世に出てきて大騒ぎしても、知らぬ存ぜぬと口では言いながらも内心では沸騰する引退する詐欺の爺さんの姿は、まるで村が崩壊するのではと言う時にも窓に背を向けて酒を飲むように映る。
そして島本和彦先生。
先の二人と比べてしまうとどうしても格落ちと言う点はあるかもしれない。
それはある意味ではしょうがないのだが、そんな彼と庵野秀明のツーショットと言えばシン・ゴジラの絶叫応援上映会での一幕ではないだろうか。
庵野秀明は上映会に来た島本先生に第一声でこう言う。「来てくれてありがとうね」と。
ふたりの関係は大学の同級生なのだが、その頃から島本先生は「あ、庵野ォォォォォォォ!!!! やめろーーーーー!! 俺より面白いものつくるんじゃねえ!!!!」と常々叫び続けており(プロレス的な面は多々あるであろうが)ライバルとしてお互いがお互いを認識しているとのが多くの人にとっての認知する彼らの関係性だ。
かつては一方的に殴りつけ、殴り返した同世代の二人。
失意の中アニメの制作現場から時に離れ、酷い躁鬱状態にあった庵野秀明がふと目を向ければ、時代の最前線でマンガを描き続ける北海道の炎の漫画家がいる。戦う舞台は互いに違えど、作品を作り続けているその姿はどれほど眩しく、どれだけ立派に見えただろうか。
話をシン・エヴァンゲリオン本編に戻そう。
ボクが「釣りエンドだった」と言う話の続きだ。
ある日、村での生活の中でわずかながらも人間性を取り戻したシンジを連れ出すケンスケ。
山の中の湖で釣り竿をシンジに渡す。
「こんなのやったことないよ」と困りながら返し、案の定この日は……というかこれ以後も釣りの描写はあるのだがなかなか魚は釣れない。
ケンスケは帰り道で仕方がないとシンジを慰めるのであるが、このシーンを見てボクの中ではもう予感――いや、ほぼ核心を得ていた。
「釣りエンドをやるつもりなんだ」と。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qにおいて綾波がシンジとゲンドウを食事に誘うと言う物が物語の大きなイベントとしてあった。
結局それは使徒の出現により実現することはなく、悲しい決別の形になってしまったのは周知の部分だろう。
「釣りなんてやったことがない」「魚が釣れなかった」。
この二つの場面はQにおいて実現しなかった親子の食事会を暗喩していたとすれば?
そんなことを頭に浮かべながら映画館で終幕へと突き進む映像を見て、ボクは静かにほくそ笑んでいた。
果たして親子の会話らしい会話がエヴァンゲリオン本編としては四半世紀の歴史の中で初めて実現する。
世界が終わるか終わらないかの瀬戸際。
人間であることを辞めて目的のために暴走する男をそれでも父親だと認識して対話を試みる少年は、少しだけ大人になっていた。
やがて精神世界の中で、おそらくエヴァンゲリオン本編で初めて実現した親子喧嘩。それも二人の背中に乗りかかっているのは世界の、人類の命運。
セカイ系の原初だと多くの思想家や言論人が言うエヴァンゲリオンに実にふさわしい格好だ。
あるいはエア夜食もビックリなほどの巨大なスケールで描かれる親子喧嘩なのであるが、あまりにも不器用で、潔癖で、方向音痴で、人間不信で、対人関係に鬱屈とした物を抱えるヤマアラシの親子が対話をするにはこうするしかなかったのだろう。
人類の運命だとか、地球の未来だとか、マイナス宇宙とか、魂の浄化とか、ガフの扉だの、死海文書だのと言った山程のゴタクと屁理屈を塗って塗って塗り重ねて行った果てのしょうもない親子喧嘩と言う形でしか、この親子は対話することが出来なかった。
ここで描かれた映像表現は旧TV版や旧劇場版の終幕部分のセルフオマージュだとか表現技法だとかメタファーだとか色々と言う人もいるのだろうが、そういった部分に関しては詳しい人に任せるとして、その核心とは結局の所として、庵野秀明という男の内面で渦巻いていた社会的立場としての自分(≒碇ゲンドウ)と本心として求める自分(≒碇シンジ)との対話の決着、折り合いを付けました、と言うだけの話なのではないかと。
それらを裏付けるものは、最後の戦闘映像の中で明確に描かれている。
第3新東京市を模したジオラマは、かつて大阪芸術大学時代の仲間と作ったジオラマ。庵野秀明はこのセットでウルトラマンに変身した。
白黒のラフ画で進められる映像は、トップをねらえ! の終盤での引き伸ばされたウラシマ時間の中での宇宙怪獣との壮絶な戦闘。
特撮の撮影スタジオのような書き割りやセットの数々はラブ&ポップやキューティーハニーなどで利用された物。
さながら楽屋オチのようなシーンは旧TV版や旧劇場版でも都度都度登場した。
終盤のわずか10分程度の尺の中で庵野秀明自身がこれまでどんな映像を作ってきたのかを懇切丁寧に描いており、それらがあって、少年としての自分が社会的立場のある大人としての自分に言葉を投げかける。
だからこそ大人である父の偽りのない言葉や在り方を否定することはなく許し、内面に抱えていた鬱屈とした原初の願望を許容し、諦め、納得して大人であるゲンドウは物語の舞台から去っていく。
早く息子が酒を飲めるようになってほしい――アタリのない釣り竿を持った父親はビールを呷りながら、世の中の多くの父親が抱く、親であればごく当たり前の感情を、エヴァ2の時から変わらず抱いていたのだろう。
大人になったシンジの存在を許容すると言うことはそういうことなのだ。
富野由悠季監督が、10年ほど前のとある講演会でこんな話をしていた。
「今の30歳は、十数年ほど前の一昔前でいえば、20歳なんだ。自分が60歳を迎えてそう実感した。10年ほど前、20歳以上の人を冗談で『青少年』と呼んでいたが、それはいまや実感だ」
「35歳までは青少年なんだ」と。
またこうも言っていた
「人間の欲求の根源とは、10歳程度の頃に抱いた願望や欲求が根となっている」とも。
――かくしてエヴァンゲリオンという物語はシンジゲンドウ親子が不器用でも良いから対話すれば終わる物語なのだ、と言うことを改めて証明して見せた。
そのキッカケとなるのが、釣りでもよいし、食事会でも、親子喧嘩でもよかった。それだけの話なのだ。
だから、ボクのようなどうしょうもないエヴァンゲリオンを見続けてしまったオタクは「もうこれを見ていた」のだ。
さて、主題となる部分に関しては以上なので、ここからは蛇足的な話だ。
最後に残されたシンジであるが……仮に20数年前の庵野秀明のままであったのならば、世界は滅び、アスカと二人で生き残るだけの形になったのかもしれない。あるいは全ての罪を受け入れてシンジ一人で消えてなくなり、世界が救われる。そんな結末もあったのかもしれない。
しかし、少しだけ大人になった少年は生き残り、あるべき世界に還っていく。
憶測含みではあるのだが、まるでΖガンダムのカミーユがTV版と劇場版でその結末が大きく変わったように。
ここでさらにどうでもいい話ではあるのだが、エヴァンゲリオンと言う架空の兵器のモチーフとなったのは3つある。
ウルトラマン、巨神兵、イデオン。
このあたりに関しては公式で庵野秀明監督本人も都度都度言及しており、宮崎駿監督や富野由悠季監督にもチクリと刺される部分ではある。
そんな庵野秀明監督は今年61歳。還暦のお爺さんだ。エヴァを作っていた頃は30代半ば。つまり、今のエヴァンゲリオン直撃世代と同年代の頃に酷い鬱に悩まされながらガイナックスと言う伏魔殿でアニメを作っていたと言うことである。
本作を鑑賞した人の中には「庵野監督に『エヴァなんか見てないで大人になれ』って怒られたみたいだ」と言う人もちらほらいる。
その人にとってはそうなのかもしれない。
では、そんな還暦を迎えたお爺さんは奥様である安野モヨコ先生の監督不行届の第一話でこんな会話をしていた。
ロンパース「ご飯も食わんと菓子ばっかり食って、いったい何歳なの!!」
カントクくん「 1 0 歳 」
エヴァンゲリオンにさよならと言ったお爺さんであるが、彼は今大好きなウルトラマンの新作を作っている。
おっぱいのデカイかわいらしい彼女と一緒に大人になったシンジであるが、その本質は巡り巡って仲間と作ったジオラマの中で暴れまわるウルトラマンなのだ。
大人としての自分と、子供としての自分に折り合いをつけたように見せかけながら、その中核的にある欲求は青春時代の情熱そのままなのだろう。
だからだろうか。「それでもいいんだよ」と言ってくれたように思えた。彼はとてもやさしいおじいさんで、今は元気にウルトラマンを作っている。
3/09 午後13時追記
更に蛇足ではあるのだが、庵野秀明が奥さんと出会って健康になった、ご飯も色々と食べられるようになった、と言うエピソードを裏付ける動画があったので紹介する。
CMを見た多くの人にとって「庵野監督がビール飲む所なんて初めて見た」のではないだろうか。ボクもその一人だった。
ともあれ、元気に暮らしてアニメや映画を作ってくれていることは嬉しい。それがよく分かるエピソードであり、シン・エヴァンゲリオン本編の前半で描かれていた数々と実にリンクする――というより、実感のこもった映像表現になった裏付けのようにあ思えた。
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