遠く、遠く。深い空を見上げて彼は教えてくれた。少し欠けた月がそこにあった。
『浮島のトキワ』
ぼくはトキワ。
おねえちゃんにそう呼ばれた。
ぼくはいろんなことを知らないから、すこしづついろんなことを教わった。
「これが南極、氷の世界です」
「南なのに、さむい?」
「南の方だから暑い、って言うのはちょっと違うね。赤道を中心にして平均気温は下がるの」
うんうん。
「日光のもんだい?」
「そうそう。大分分かってきたね」
ごしごし。
おねえちゃんに頭をなでられるとあたたかくなる。
こういう時、おねえちゃんはやわらかくて、ぼくもうれしい。
「そろそろ休憩しよっか。そろそろお昼だし」
うんうん。
おねえちゃんはそう言うと地図をしまって、たちあがった。
「なんきょく……こおり……さむい」
いろんなことを教わった。
いきもの、たいりく、ぶっしつ、きしょう、てんたい。
おねえちゃんはなんでも知っている。すごい。
トキワが起きて三日目。喋り始めて二日目。
信じられない速さで知識を吸収していく。お湯を沸かしたながら考える。
まずは知識の下地になる言語。次は科学、物理と教え始めたら、既に一般性相対性理論を理解し、特殊相対性理論の初歩が組みあがっている。
何も知らないから、では説明が付かない吸収力。聞かれてしまうから教えてしまう、と言う状況だけれど、かと言ってすぐさまそれを理解できてしまうこの子が怖い。
今は基礎的な地理を教えているけれど、多分、今日中には惑星の構成物質などの事も覚えてしまうだろう。
正直に畏怖を感じる。
グラグラと煮え始めた鍋の火を弱め、おたまをクセでくるりと回す。
知識ならいくらでも教える事は出来る。問題はその先だ。
あいにくとお婆様はまだ起きない。早くても今夜遅く。普段どおりならば明日の朝。
私にその先を教える事はできるのだろうか? 無意識に溜息をついてしまう。
そんな時だった。
「……鯨ばあさん、起きてるか?」
「――ッ!?」
おたまを取り落としそうになる。
「随分な反応だな」
緑色した髪と瞳。真っ黒な装束に身を包み、その人はいつの間にかそこにいた。
まっくろで、みどりいろのひとがおねえちゃんと話していた。
そのひとは少しだけぼくを見て、ずいぶんとおどろいていた。
ちかづいてくる。しゃがむ。目が、合った。
「……名は?」
な?
「名前だ。お前はなんと言う名前だ」
どうしていいのかわからず、おねえちゃんをみる。
おねえちゃんも少しだけこまったようにして、それから言った。
「トキワです」
「……どういう字を書く?」
「えっ」
「字だ。どう綴る?」
おねえちゃんのゆびがおどる。
「……なるほど」
「あの……やっぱり、ダメでしたか?」
おねえちゃんはやっぱりこまったかおで、なべがぐらぐらとしていた。
「……いや。良い名だな」
すこしだけわらって、そのひとはおねえちゃんと、なにかを話はじめた。
なんだか、すこしこわくて、すこしなつかしくて、すこしあたたかいひとだった。
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